今日はオリンピック開会式。やる、やらないのとくすぶりながら、いつの間にかこの日になったという感じ。一般人に集まるな、出かけるなといいながら、世界中から人が集まるイベントを大々的にやるのは、100%では喜べない。スポーツで元気を与える、とかいう押しつけは苦手。ましてや「コロナに打ち勝つ」というような精神論の表現が不気味だ。戦争の時代から、日本という国の幹部の「精神論でなんとかなる」という謎の自信は変わっていないのかと思う。
オリンピックを見て感動した経験はある。とはいえ私はスポーツよりも圧倒的に音楽で力をもらってきた。学生時代は辛かったこと、悔しかったことは、部屋に籠もって音楽を聞いて乗り越える、サブカル女子だった。人に勇気を与えるのは、スポーツだけではない。アニメ、音楽、人によって様々だ。夏の音楽イベントは軒並み中止。仕方のないことだと思う反面「オリンピックだけ特別扱い」にはしらけてしまう。
元サブカル女子の私は、オリンピック・パラリンピックの楽曲提供にコーネリアス(小山田圭吾)の名前が出て、懐かしさと嬉しさ。ところがあっという間に過去のいじめで炎上→辞任、となった。早かった。小山田くん(元サブカル女子はこう呼んでいた)のいじめ問題は、これまで全く知らなかった。あまりに酷い内容で驚いた。
作者の人間性と才能と生み出す作品のよさ、の関係性は多様だ。どんなに素晴らしい作品だったとしても、作者の人間性が垣間見える出来事の内容次第では、たとえ過去であれ、人それぞれの受け止め方は変わってくる。
作者本人が聖人君子ではないように、オーディエンス側も聖人君子ではない。作者と作品は別だ、と切り離して考えることができる場合もあるが、無理な場合もある。だから、受け入れられないと思えば離れていく。それはごく自然なことなのだ。